ganashfieldの日記

日々の記録 境界性パーソナリティ― 全般性不安障害

助けを求めすぎて墓穴掘る

多分昔の私ならただ自分を傷つけて美しい音楽を聴いて自分の世界に浸って終わりだった。これは一つのストレス解消法であって誰にも迷惑をかけてはいなかった。でも今私はいろいろな人に迷惑をかけているとしか思えない。
時々自分の大事にしている人たちまで傷つけているかもしれない。私が悲しむとその人たちも悲しむのだ。それをきちんと分からずに迷惑をかけた。
当初の目的では、私は十月か十一月に働いているところだった。でも遅くされた。なぜかわからないけど、ハロー ワークは必ずしもいい結果ではなかったかもしれない。知識がありすぎるのも考え物だ。
あの人は私を嫉妬させた。悪意もなく。私は同じ苦しみに見舞われた。でももう嫉妬でもなんでもいい。苦しめばいい。自分自身、苦しんで満足するまで苦しみ、報われることのない期待を持ち続ければいい。自分が作り出したに過ぎない悪感情を持ち続ければいい。
嫉妬は彼に対してだけではないシェリ に対してももっているんだろうね。結局世の中を渡っていくのに頭のよさや思慮深さが勝るわけではないのだ。自分自身がしっかりと地に足が着いていることが何にも勝る前提条件なのだ。
私は、自分でそれを作るしかない。自分にうそをつき続けていたのかもしれない。本当は自分の欲するものを知っているのに、わざとそれを否定してしまったのかもしれない。自分を抑圧してしまったのかもしれない、周囲の思惑や期待に応じようとして結果的にそれも十分に満たせず!

弟まで私を抜くなんて。私は廃人になってしまったように思える。友達には話しかけない。私に返事してくれないに決まっているから。誰にもあてにしない精神を持っていたのに。運動して美しい空気と景色に触れたのに。あいつが台無しにした。私に話しかけ私の気分を壊した。今日の午後ずっと。
何?札 に来るからって何?私に会いたいわけでもない。ただ友達と遊ぶ。いつものように。私はわざとひねくれた解釈をした。それは彼の気を引くためだった。でも鈍感な相手にその試みが通じるはずもない。ストレートで単純に表現するしかないのを知っているのに、なぜ私はそんな行動を取ってしまったのだる。
わからない。悔しい。自分で結局自分を苦しめ、ネガティブな妄想によって自分を貶める恐ろしいメカニズムが働いているのだ。
このメカニズムはもう板についていてそう簡単に拭い去れるものではない。事故破滅マシーンなのだ。

とにかく苦しい・・・嫉妬が苦しい。嫉妬したくない。苦しいのだ。
誰か私を美しい世界に連れて行ってくれますか。あのころは美しかった。音楽が部屋中になって私はひとりで、暖かい天気の中で、カラフルな植物と食べ物に囲まれていた。
そしてただ勉強をした。本を読んだ。語句を調べた。あの時間は何のためにあったのだろう?何のために用意されたんだろう。
教えてください。神様。なぜ私はあの土地で、行ったことのない土地と人々に突然温かく迎えられて仕事を与えられたんでしょう?何のためにあんなにたくさんのプレゼントを彼からもらったんでしょう?私の望みは一つも聞かないけれど物質的には私を裏切らない彼をどうして私の周囲においたのでしょう私に精神的な幸福は与えられないんでしょうか。でも私は今、ただ罪悪感とふがいなさの中に生きている。
ただFirst Stepを踏みさえすればまず、その罪悪感とふがいなさから開放される。その代わり、金銭的な不安と人に利用され搾取される不安と孤独に悩む知れない。
はあ・・・死にたくなる。私に言うだろう。あいつなら、私をネガティブってまた言うんだろう。でもネガティブにさせるのはいつもいつもあいつなのに!!!!!!


思えば、私の日記はこの繰り返しだった。何かを全否定し、最悪な気分になった後、解決の道か解決の言葉私を生かす私自身の言葉が出てくる。
今出てきますか。私の言葉が。

そういえば私は何か高い目標を与えられると燃えたものだ。テストで何g百点とるとか。試験が結構私を燃えるようにさせたものだ。だからよく勉強した。今私に試験というものがない。何が私を燃えさせてくれるんだろう。それとも何か試験を受けるべきなのか。
ああ・・・ひどい気分。三ヶ月くらい何もしてないなんて。ひどすぎる
九月半ば、十月、十一月、十二月、一月。四ヶ月プラス1週間だなんて!あと一ヶ月で五ヶ月、あと二ヶ月で半年じゃないか。一年の半分になる。このままではいけない。
自分のためにも周囲のためにも。周囲は心配している。私はいい結果を伝えたい。あの友人も三月に来る。そのときに笑顔で会わないといけないのだ。
そう、三月に笑顔で会わないといけない!!!


自分の幸せさえあいつには言わないべきだ。私はあいつを憎んでいる。憎んでいる相手に祝福などしてほしいものか。嫌われるほうがマシ。同情されるくらいなら嫌われたほうがマシだ。
私は、絶対に曲げない。、自分にうそはつかない。自分をいらいらさせたり怒らせるような考え方やシステムからは目をそらす。適宜。しかし批判しそれをこの世から消し、変えていきたいという思いは捨てない。それが私に正直になる方法だから。


あの人たちが言っている言葉。嫌いなものを嫌いだという必要はない。ただやってみて、といっている。あの人たちの善意が私の信じるもの。私は他人の善意を信じる。善意は多分普遍的なものだと思う。それは愛というものか。人間の持ちうる善意を信じる。私は、それを信じていたことを思い出した。十九歳のとき、駅の近くで待ち合わせをしていたその人。その人は別れ際まで、気をつけてね、大丈夫?と私を気遣ってくれたのだ。
私はそれだけで十分な気もする。
私は多くを望みすぎた。だから、今までのすばらしい宝石のような一瞬一瞬を見逃したのだ。そして、得られない、渇望状態に陥って苦しんでいる。
そう思いませんか。


わかりました。私は善意を信じます。


私の中の善意と他人の中に存在する善意を信じます。それは善への意思です。美ではない。美はやはり善とはまったく比較にならないものだ。美は何だろう?それはあらゆる価値ではないのか。どんなに醜悪なものも美に変貌することがある。でもそれを善と信じてもいいわけではないのだ。ディオニソス的なものかもしれない。