ganashfieldの日記

日々の記録 境界性パーソナリティ― 全般性不安障害

薬を昨日の午後飲んで、今朝まで続いたのか眠れなかった。でも目が冴えて、小さなことに幸せや喜びを感じることができる。以前この薬を飲んでいた時、眠れなくなるなんてことはなかった。でも今現在一錠飲んだだけで、とても強いコーヒーを飲んだようになる。
それまでつぶれそうで眠りそうな目が、開かれて視界や視野も広がった気がしてくる。物事をきちんと観察でき、見落としたりしない。

そして今朝歩いてパンやバナナなどを買った。それを食べて、私はとても優雅で幸せな気分になれたのだ。今までキッチンでパンを焼くことができなかった。共同で、人に会って醜悪な姿をさらしたくなかったから。でも今日パンを焼いて自分の部屋で食べた。バナナも食べ、牛乳も飲んだ。オレンジジュースも。それだけで、とても満ちたりたきもちになり、今時分が持っているものに感謝できた。
ああ、なんてすばらしい食事だろう、と思った。そして朝が始まり、こんな早い時間におきていたことは今まで無い。でも久しぶりに焼いたパンがとてもおいしく、食後のインスタントコーヒーもとてもおいしかった。
今日一日は素敵な気がする。でも不安もある。こんな思いが消えたらどうしようかという不安。今はまだいい。ある未来の一時、私は何をどこでしようとしているの。私の居場所はない、などと思うんじゃないだろうか。
家族への憎しみも一時的に消えた。
とにかく一人で最高だ。私は。この気分を他人に会うことによって邪魔されたくない。私はまたこもるのか。自分の部屋、自分の心、見えない壁に。自分で作っているのだろうが、自然にできたとしか思えない壁がある。それが突然存在する。私の気分によって。
複数の人が私を残してまとまりはじめると、その壁は益々あつくなる。私はその時が本当葉嫌だ。でも一度その壁を他人も認識し始めるとやや楽になる。でもやはり寂しいし、うちとけたい。でも一度うちとけて話が弾むと、知らないうちに時間がたち、私は時間を無駄にしたような、それまでの思考を全て吸い取られたか空中へ流されたような気がして、嫌になる。
人と打ち解けても、打ち解けなくても、どちらにしても嫌になる。でもお隣や向かいの部屋の人たちとはそういうのがない。友達になっているからだろう。友達になってるから、長々話す必要もないし、話したい時に話せば良いし、挨拶も軽い。
でも友達と他人の間の人間関係は難しい。何か好印象を与えようとしたり、自分のことを話したり相手のことを聞いたりする。本当はそんなことに大した興味は無い。そしてそれ以上の会話をする時間もない。でも隣近所はいつも会うからだいたいわかる。たまに会う人たちとの人間関係が苦手なのだと思う。どこまで親しくなりますか。
私の基準は多分、深すぎる。相手はひく。そこまで親しくも無いのに、何?と。私はちょっと残念になるけど、次からまったく関与しない態度をとったりもする。相手のすでに親しい人たちが周囲にいて複数でまとまると、私は関与しないことにしている。
なぜだか分からない。明らかな親しみの度合いの差を感じる中で、その中に入るのは居心地が悪いからだ。だから私はほとんど無視、していると思われてるかもしれない。無視ではない。単に居心地が悪いような気分になりたくないのだ。かといって過剰に親しくして、神経を使うと他の事が考えられなくなるのだ。私の自分の用事が足せなくなるのだ。
それだけ。

私は今寝るべきだろうか。一睡もしていない。もうこの日記を書き始めて一年以上もたつなんて信じられない。そして昔と今の私の悩みは変わっていない
私はいったい今まで何をしていたのだろうか。イライラしてくる。でも迷って迷って悩むのにエネルギーを使い果たして、自滅するイメージを想像していた。そんなこと想像するなんて恐ろしい。でも想像していた。各人エネルギーは限られていると思う。生きるエネルギーを得ることは本人の努力。動物が食べ物を食べるのと同じ。植物が日光を浴びて強く育つのと同じ。人間も食べ物や運動、精神力、見るもの聞くもの、学習するものによってエネルギーを蓄える。私にはそのエネルギーがある。充満している。しかしそれをどこに持っていったら言いかわからず、悩むこと、迷うこと、自分や他人を責めること、そういったことにエネルギーを使ってしまい、毎日寝る。あるいは占いや心理テストや心理学系の本を読み続けること、答えを出すことに必死なのだ。そんなばかばかしい方法で?と皆言うだろう。そのばかばかしい方法を取る。私には根拠はいらない。ただ信じるものがほしい。宗教にもいく。でもやめた。面倒くさいし、人からではなく本から学びたいから。私はすぐに矛盾を見つけてしまう。そして、違和感を覚え、申し訳なく思う。こんなことにエネルギーを使うなんて相当の無駄なのだとわかっている。でもあるとき私はただぼんやりとして何も考えない。ただ憂鬱だった。外の空気が、灰色の雲が、気温の低さが。でも今私がいるところはよく晴れて暖かい。あの場所よりは。そして美しい花まで咲いている。私は明るい気持ちになった。この体内のエネルギーと、食事と、日光を、今いるこの環境とこの場所をどうにかして有効利用しないといけないと思う。
とにかく眠るほうがいい。午後から用事があるのだから。

精神科にいくことを友人から進められ、なんだか逆に楽しくなった。たぶん、心配されて嬉しいのだろう。その気持ちだけで私は嬉しい。友人にも感謝できる。友人しか理解してくれない。全てとは言わずとも私が苦境にあることを知ってくれればそれで私は孤独を感じずに済む。実際に精神科に行くかどうか分からない。でも関係ない。私は行っても行かなくても治療法がある程度わかる。でも急には変われないのだ。ただ気分障害を何とかしたい。猜疑心や自分を醜く感じて引きこもるのも嫌だ。自分が美しいと感じるとき外に出る。でも最近はそれを感じない。太っているから。そして自分がどうするべきか知りたい。何のために生きるのか。何のために働くのか。何をしたいのか、はっきりと一貫性を持って知りたい。


追記:
薬を飲んでもう一つ変わったのは、同時にラテン系の音楽を聴いて益々気分が落ち着いたことだ。そして南国のすばらしい風景と色彩が頭の中に浮かんで私は絵を描いた。三枚ほど。色をつけたい。飾りたい。そしてその絵のような世界に行きたい。行けると思う。それを毎日眺め、それに似た場所を常に探して頭の中で描いていれば。そこで何をするか、それはその時考えればいい。その場に行きたい。私はそういう生き方しかできないのかもしれない。昔も創だった。先のことより、ただその中に身をおくことに憧れた。そこで何をするかではなく、どこにいるか、誰といるか、どんな気候と文化の場所にいるか・・。これは良くないことだろうか?そこにいて始めて、環境よりも何をするか、できるかが大事だと思い始めたのに。結局うまくいかず、また同じ息方に戻るんだろうか。環境と人を求めて。自分で何かをしようというのではなく、自分から何か奉仕したり提供するのではなく、育つことを考えているのだろう。自分の成長しか頭に無いのだろう。だから仕事が見つからず、できないのだろう。でもどうする?このままだと本当に働く先がなく、体が強くないのに肉体労働になってしまうのだろうか。それは無理だ。精神的にもおかしくなった。普通の人ならできることが私には重労働だ。
私が簡単にできること、それは書くこと、絵を描くこと、音楽を演奏すること。つまり遊びだ。
私はこの歳で、まだ子どものように遊び、子どものように成長することしかできないのかもしれない。
そして私よりかは子どもである人々を対象に教育することができる。私にはそれしかないのかもしれない。そうは考えたくない。それがだめならこれがあるというような人間になりたい。選択肢を持たない人間にはなりたくない。でも私は一貫性を求めている。自分の人間を決めないと仕事にもつけない。仕事は、自分を決めて、自分の役割を決めて、自分のできることを見せる。提供する。本当はできないことでもできるふりをして、できる自分になる。そういう方法で以前も教えていた気がする。初めは実は何も無い。詐欺師か役者になるのだ。その仕事が役割。演じる。完璧に、疑いなく。私にとって人生が舞台、私自身は役者だ。でも誰のために、何のためにかわからない。私という生き物が生きるために演じているのだろう。誰がその役を決めるかというと私は占いをするとき、運命であり、宗教をやるとき神であり、心理テストをやるとき、私の気分や人格といった環境や自発的な方向性を決める私のDNAの進んだ道なのだ。つまりそこに私の意志というものがあるならば、心理テストがもっとも私の意思に近いのかもしれない。だから私は心理学の本を読んで自分を特定しようとしているのだろう。でも単純にないのだろうか。是が好き、是が良い。というもの。どうしてそれがいつも変化するのか。どうしてなのか。わからない。あるいは、自分の好きなものを自分で認めていないのではないかとも思う。ほしいもの、良いものそれを自分で自分に与えることを拒んでいるのではないかとも思う。だから他人に振り回されずに生きる方法なんて本もよんだりしている。山ほどある。自己啓発や人生の本。どれも面白い。でもどれを取る?どれに共感する?全て?あの時はあの本に従い、このときはこの本に従う。あるいはあの占いに従い、この占いに従い、あの宗教に従い、あの詩人の言葉に従い・・・
これでいいのだろうか。疑うことそのものがよくないのだろう。したがっていけばいいのだ。その時その時で従い、行動するしかないのだ。行動し、外にエネルギーをだし、外に働きかけてはじめて現実のものとなる。内に秘めている間は何も起こらない、何も変わらない、人生を無駄にしているのだ。現実を作ることを怠り、人生を無駄にしているのだ。そうはなりたくない・・。