ganashfieldの日記

日々の記録 境界性パーソナリティ― 全般性不安障害

誰を信じれば?何を信じれば?合理的精神が答えなのか…

哲学や宗教といったものに関心があるのですが、ブッダの考え方に今日触れました。

まず、生を苦であると認識し、受け入れるところから始まる。

でもこれができないんですよね。煩悩に支配されて、ネガティブな気持ちに苦しむのですよね。

こうありたい、こうあってほしい、というのがあって諦められない。

死も必ず来るし毎日老いている。でもいつまでも健康で美しくいたい。

本当の賢者は煩悩を抑えることができ、心をしずめ、適切に栄養をとり、休み、自分のものに執着せず、世界と一体で、満足している、、、そうですよね。

 

私は今日仕事で失敗していると思いました。もっときちんと時間配分を考えれば、もっと質問の仕方を変えれば、もっと調べ物をしておけば、自分の仕事が失敗していると感じなかったはず。でも待遇に不満があるし、やる気がないし、集中しないし、どこか諦めていて、改善意識もないのです。

待遇がもっと良ければ、改善の努力をするかもしれない。

でもこれって職業意識の薄い私が悪いんでしょうか。待遇や業界が悪いんでしょうか。

 

まえは馬鹿正直で熱意や愛情にも溢れていました。二十代の時。

その時の方がむしろ幸せだったかも。

今は不満があるから真面目に仕事したくないんです。

 

もうこの仕事に見切りをつけるべきだろうか。でも他に生きていくための仕事でできることがあるのか?

 

仕事はやろうと思えば何でもできるかもしれません。クビにならない限り、この仕事を続ければいいのかもしれない。

 

たとえば給料。授業の時間数。

友達は、スクールの掛け持ちは馬鹿げているという。自営しろという。

友達の言うことを信じると、実は自分を惨めに感じてしまう。でも友達は私を心配してくれてそんなことを言うのだ。

 

友達に愚痴を言わなければいい。自分の選択や自分の決断で、自分の生き方はいつからでも変えることができる。

最終的に自分がどうしたいかなのだ。

でも自分を責める必要もない。自分は無力で他から影響される1人の人間に過ぎないのだ。

 

環境を変えれば、自分の生き方も変わるだろう。

思い切って環境を変えるか…なかなかそうするのも怖い。

行動すべき時に行動しないと同じ悩みを何年も持ち続けることになる。

 

仏教の考えでは諸法無我というのがある。外界と自分は依存関係にある。お互いに助け、助けられる。

それが拠り所や安心感のもとになっているんだろうか。

 

そして、客観的、合理的、現実的に自分を見ること、自分を集中させ、目的を明らかにしてそれに向かってただ走ること、それが人の責務なんだろうか。

 

何をするにしてもそういった態度でいれば、不快な気持ちに苦しむこともなくなるのだろうか。

 

私はつまらないことに悩みすぎているような気もします。

ただ今の生活から抜け出さないといけないような気がする。

今の生活は逃げの生活のような気がする。