ganashfieldの日記

日々の記録 境界性パーソナリティ― 全般性不安障害

もしアイデアが浮かんだらすぐに止まり考え、疑ったりしてはいけない。when idea comes, it is your responsibility to act on it. which is the secret of productibity, according to Dr Joe Vitale.
このBGMもいい。民族的な、フロリダみたいな感じ。ボートの上にいたらわにがでてくるような。そんな世界に行きたい。
the very first is if i don't act on it, other people may act on it. my heart is connected to the idea. 他の人にもそのアイデアが与えられてるかもしれない、だから自分がすぐに行動しないといけない。
your dream, your passion and love is the secret of the productivity

それは確かに良く分かる、私もよく悔しい思いをする、立ち止まりすぎて段々追い越されて恥をかき、情けなく思う。どうしてできないか?それは怖いから。みんなが支えてくれうる、相談にのってくれる、という思いが少しでもあればそんなことはないのに。いまだに何もしてない、悩むのに時間を使ってる、残念だ、といわれてしまった。私もあなたを残念にさせたことが残念で実際自分の損失は大して感じていないような気もする。私がほしいのは、愛、他の人に与える愛、それだけかもしれない。友情も同じ。友情がほしい。与える友情ともらう友情がほしい。それがないと私は虚しくて、寂しくなる。不安にもなる。誰かにはぎとられるような不安。利用されるような不安もある。それならそうならないようにしておけばいい。尊敬を集めればいい。自分が狙われるような存在だと思わせないような尊敬の念を持ってもらうのだ。
そのためには責任ある行動をとらなくては、一貫した行動を。友達教えてくれた、踏み出せない原因があるかどうか真剣に考えれば問題を解決できるかもしれない、と。
健康上の不安なのだ。精神的な。気分障害、不安、不安神経症、うつ、恐怖、それら。
具体的に言うと、急に虚しくなり停滞するかもしれない、
じゃ、薬を飲むか、ずっと楽しいことだけ考えていればいいのだ。テレビが見られる時、とてもうれしかった。一度壊れた画面が復活した時、すごくうれしかった。早く仕事を見つけることが先決だ、自分自身の人生が一番大事だ、と言われたとき。うれしかった。私を親身になって考えてくれて。
あいつと一緒にいてもまったくそれを感じない。あいつはただ自分の楽しみだけを追及している。大嫌い。そんなやつ。じゃ、かかわらなければいい。電話もメールも受け取らなければいい。確かにそうだ。でも実際私はあいつを喜ばせることを悔しいと思ってるはずだ。ばかばかしい人間、私に対して何も利益にならずかえって害するだけの人間に、何か楽しいことをさせるなんてばかばかしい。僕は君を理解できないと思う、とあきらめている、そのせりふをきいて、また頭に血が上った。できない、ではない、したくない、なのだ。むかつく。
やっぱりむかつく!

私の怒りの原因を見てみよう。それは、相手が私を理解しないということ。私がしてほしくないことを理解せず、私がしてほしいことを理解せず、私のほしくないこと、私にとって害になることを与える、そして私をイライラさせる。それが私の怒りの原因。
そういう人種なのだが、殺すわけにも行かない。私の中でそいつらが存在しないという妄想に住まうか、そういう人種の存在を認めないといけない。どうやって認められるか。
→方法一 そいつにわかってもらわなくても、他の人に多く分かってもらえればいい。今のところ、分かってくれた人は二人。これでは足りない。もっともっとたくさんの人にわかってほしい。どうするか。本やブログで書いて書いて、見てもらうか。
→方法二 なぜそもそも理解されないことがそんなに腹立たしいことなのか。理解されることがどうして喜びなのか。
いわば心理的一体感だろうか。自分のことをきちんとわかってもらうことによって、何が得られるのだろう。孤独の解消?孤独の解消ということに関しては、色々な方法がある。好きなことをする、テレビを見る、とても興味の引く物事に従事する。それらが私にとっての孤独の解消。
じゃ、分かってもらうことによって得られるものは。ただうれしいという感情以外に何も分析できない。でも理解してもらうことができるようにも思えない。どうして他の人ではなく特にあの人間に理解されたいのだろうか。あの人間に愛されていたとしても理解されないとしたら私hなにもうれしくない。理解してほしいなら、理解してもらえるという希望を持つだけで私は感情的に喜べる。でもあの人に「理解するのは無理だ」と言われたら私の心は荒涼として、怒りさえ生じる。相手が許せなくなる。
私は自分中心なのだろうか。相手が「無理だ」ということに対して私は「無理ではなくてしたくないのだろう」と意志の問題として相手を責める。意思を持つことは能力にかかわらず自由でありできることだと信じているからだ。でも意思として拒絶しているということは、その意思を私という他人が撤回させ、新しい意思をその人に植えることはできないのだ。つまり、できないのだ。相手に「あなたを理解するよう努力する」という意志を持たせることはほとんど不可能に近い。相手が影響を受けず、頑固であればあるほどそれは難しい。私が「きっとできる。きちんと話を聞けば、わかる。」と説得してm、届かない。これは相手の心がふさがれているからだ。相手の心が、相手の快の感情が、「人を理解すること」に向いていないからだ。つまり相手にとって喜びは、私を理解することではないのだ。私の喜びは、相手が私をわかってくれること。相手の喜びは、私を理解すること、ではない。むしろ、理解できないと断言している。つまり、次に私がするべきことは、「あきらめ」だと人は言うかも知れない。でも私は絶対にあきらめない。「あきらめる」というもの以外のもっとポジティブな心境で、次にすることを表現したい。
「あきらめ」は後味が悪い、何かいい心理的行動は無いだろうか?
でも現在私はどちらかというと私情を離れ、何か解決法を探ろうとする科学者のように感じて、これは面白いと感じている。ここに何か一つの鍵がある。苦しみを、探究心に変えることができて、ある意味喜ばしいと思う。


あきらめではなく、次にするべきこと。それは、苦しみを手段に変えることだ。私の今の行動ももしかしたらそうだけど、私の本当の目的はこんなことではない気がする。私の目的はあくまで自分を表現したい、自分をわかってほしい、ということに尽きる。今までずっとそうだった。その思いをどこにぶつけたらいいのだろう。でも私の目的は一つではないはずだ。人に喜ばれたい、とか人の役に立ちたいだとか、社会に貢献したい、とか色々あるはずだ。熱帯雨林や青い海のところに住みたいとか。それらの目的のうち、優先順位を決めることがもしかしたら先決かもしれない。優先順位を知り、それにむかっていれば、時間を無駄にして悔やんだり恨んだりすることもないだろう。

でもやはり、過去に残した未解決の問題はどうしても無視できない。どこかで頭をもたげて私を苦しめるに決まっている。理解されず、嫌なことばかりをされたという苦しみや恨みが出てくる。どうしますか?行動に移さなければそれでいい。多分、その気持ちを土の中に埋めてしまえばそれでいい。
聖書の言葉「復讐はあなたのすることではない、それは私のすること。天に怒りを任せなさい。善を持って悪に立ち向かいなさい。」
とありましたね。天って何だろう?国家の場合もある。でも私とあの人間の間に国家も天もないのだ。どこに任せるか。周囲の友人だろうか。
二人の友人が私を理解してくれた。その人たちに言われたことは、あなたに一番必要なことや大事なことはそれじゃない。そのことじゃなくて、もっと大事なことに目を向けなさい、と。大事なこと、自分の人生、自分の時間が一番大事。怒りに心を奪われてるのは残念だ、と。
その人たちの時間も私は奪ってしまったのだ、私の話を聞くという面において。
でもこういうことがあってこそ、周囲の理解アル人たちとの絆は深まるかもしれない。私がその人たちの言葉を聴いて、ちゃんと行動し、自分の本当の自分のためになる目標や幸せを手に入れたら、周囲の理解ある人たちは喜び、自分の忠告を私がきちんと受け入れて行動していることを喜び、信頼するだろう。
苦しみは宿命なのだろう。誰だって経験することで、避けることはできない。誰にも与えられているのだ、程度の差こそあれ、やはり一人一人の苦しみは一人一人にしかわからないのだ。自分だけがとても不幸だというわけではないし、害した人々が特別極悪人というわけでもないのだ。極悪人にだって事情やそれに至った経緯がある、その人格を形成するにいたった経緯があると信じているのは私だ。自分の個人的な事情に関して例外ということはない。私は傷ついたが、自分の傷つきに注目しすぎると、まるで自分だけが世界で一番不幸で、相手が世界で一番の悪魔に見えてしまうのだ。でもそういうわけではない。ある程度の苦しみ、ある程度の傷、ある程度の悪に遭遇しただけ。しかもそれは図ることができない。悪意と善意はいわば程度のもの。
あの人から善意が感じられないことがどうしてそんなに許せないのか。わからないkが、善意がまったく無いわけでもなく、自己中心の塊というわけでもない。一言で片付けられたくない。でもあの人間は、そもそも共感能力が無い。
これも今まで何十回思ったことだろうか。思うだけで何か利益があっただろうか。そうやって言葉にしても虚しいだけだった。何も変化はおきない。
むしろ、その現実にイライラするだけ。
相手は不完全な人間だ。不完全な人間に完全を求めることはできない。むしろ、この程度はできている、ということに注目したほうがいい。